FOU’s blog

日本の大学 今 未来

ヨーロッパの大学9 写真でみる東欧 ー若い人は海外へ行こうー

こちらは、西ベルリンシリーズからの続き部分。ざっくりいうと東ベルリン→チェコスロバキア(当時)→オーストリアハンガリー等々へ。整理が悪くてお見せしたかったネガが何本かがどこかに隠れていますが、改めて見つかったらブログに使いたいと思います。すいません。こちらでは大学ネタは皆無です。

(当時の)東ヨーロッパは面白い

東ベルリンではフンボルト大学の前をとおりすぎた記憶があります。そこからまずチェコスロバキアへ行きました。こちらでは、特に若い方にはそんなに古くもないけどかなり今と違うヨーロッパの様子を見るのも良い機会かもしれません。ちなみに現地で出会った早稲田大の学生によると2000人の早稲田学生がヨーロッパに来ている!と言ってました。かなり不正確で乱暴な数字だと思いますが、確かに2月から3月の西側ヨーロッパは日本の大学生の姿はたくさんでした。今の若い人たちもがんばって海外に行ってみましょう。

久しぶりにクイズQ:筆者が東ベルリンでタクシーに乗った時、ドライバーは『おまえは○○○国からきたんだろ』と言われました。さて、その国はどこでしょう?答えは一番最後で。

地球の歩き方(東欧編)は、通称『地球のだまし方』(当時)

時代は1980年代末、ソ連があって、東ドイツがあってベルリンの壁もまだありました。もちろん西ドイツ以西のヨーロッパには多くの日本人観光客がいて今とさほどかわりません。ところが東ヨーロッパは別世界。入国するにはビザを取得しないといけないし、ホテルも自由に選ぶことが出来なかった時代。だからこそ東欧を歩く際は地球の歩き方は必需品でした。当時の歩き方(東欧編)は、ソ連編が確かあったので、東ドイツ(当時)、チェコ・スロバキア(当時)、ハンガリーユーゴスラビア(当時)あたりについて全般の紹介。当時の現地情報は、実際その地を旅した人物のレポート・報告記事が多く入ってるのですが、お話したとおり、当時の社会情勢で、東側地域を旅した旅行者の数が少ないため、情報が不正確。例えば〇〇通りの3丁目の角においしいレストランがあるとか書かれていて、実際に行ってみたらそんな痕跡なしなんてよくある話。なので、東欧へ行く旅行者はしっかりしていないと生きていけません。

♪ リンゴの花ほころび ♪ Katyusha/Катюша

トリビアのお話。当時の東欧はソ連(ロシア)人がどこにでもいて幅を利かせていました。異なる国で2回体験したのですが、当時の向こうのレストランでは結構普通にバンドの人がいていろいろ演奏を行っています。そんなところで食事をしていて、お客さんの中にロシア人がいるのがわかると決まってこの曲を演奏し、拍手喝さいとなって(表向きは)盛り上がります。でも、当時でも東欧の人たちのロシア感情は良くないわけで、そんな中でのおもてなしの作法なんだなと体感。

もう一つ、ついでに詠み人知らずの小話

ソ連の政治家たちが東ドイツから列車でソ連に帰るときの会話。

政治家A 『今どのあたりを走ってるんだ?』

政治家B 『腕を窓から出したらわかります。腕にキスをしてくれたんでまだ東ドイツの中みたいです』

政治家A 『今どのあたりを走ってるんだ?』

政治家B 『腕に唾を吐きかけられたんでポーランドに入ったみたいです』

政治家A 『今どのあたりを走ってるんだ?』

政治家B 『腕の時計を盗まれたんでソ連に戻ったみたいですよ』ちゃんちゃん お粗末でした。

それでは、以下、写真ごとに解説していきます

【写真】チェコスロバキアプラハ・カレル橋とプラハ城界隈 ヴルタヴァ川はドイツのエルヴェ川方面に流れていくようです。

【写真】ハンガリー 多分ブダペストのどこか 当時のチェコスロバキアハンガリーを比べると断然ハンガリーの方が旅しやすかった記憶があります。チェコスロバキアは、街中にたくさん警官?らしい人が巡回していて暗い雰囲気。その点ハンガリーは、街の雰囲気は明るく、料理もおいしいしかった記憶が。今はどうなっているのでしょうか。

【写真】ハンガリー・ブタペストではホテルではなく、こんな感じで立ち並ぶアパートの部屋貸しで泊まりました。駅とかのTurist Informationで(バックパッカーを見たら)紹介してくれます。価格は忘れましたが非常に安価でした。確か朝ごはんも出してくれた記憶あり。もともとバックパッカーってそんなもんで、今となってはよくもまあ、こんな無計画で軽いノリの旅に出かけていたもんだと回顧する日々。

【写真】ハンガリー・ブタペスト レンタルルームのあったアパート

【写真】ブダ城 ブダ地区にあるお城。 ドナウ川が見るだけで寒そう。

 【写真】西ドイツの列車 どうやって西側に戻ってきたのかも憶えていませんが、写真をみるとダルムシュタットから西ドイツに入りハイデルベルグへ向かったようです。そういえばみんな大きめのトーマスクックの時刻表とにらめっこしてスケジュールを決めていた記憶がよみがえります。だいたい日本人は一等のユーレイルパスを買ってきて持っているのでバックパッカーの割に一等車を占拠して(多少)ひんしゅくを買ったかもしれません。

※現地で出会った手を振っている写真の彼女は、東京の(アタマの良い)女子大の人で就職内定先は(この当時で)外資系のコンピュータ関連企業。座っている女性(黒い髪だけの人)は、確か京大法で、就職内定先は、某超有名新聞社とお話していました。東ヨーロッパでは日本人旅行者がとても少ないので出会うとすぐに友だちになります

【写真】ハイデルベルグのバス停 ここでバスの乗ったときキセルチェックがあって何人か捕まっているのをみました。その時はコート姿の二人の男性が入ってきてチェック。特に旅行者は些細な金額なのでちゃんと料金は払いましょう。

答え合わせ A:答えは『あんたはベトナムから来たのかい?(原文独語と片言の英語)』でした。当時の東欧は、ワルシャワ条約機構に属し、ソ連ブロック経済圏に入っていました。東南アジアでもドミノ理論というのがあって、ベトナム社会主義国化し、その他の国も共産化しないかアメリカなんかは心配していた時代。実際ベトナムの隣国カンボジアではポルポト政権による虐殺が行われています。

そんなで、東側エリアにいるアジア系の人物をみたら多くの人は、ベトナム人とかを連想してしまうようです。なお、(多分)ドライバーさんが中国や北朝鮮ではなくベトナム人を連想したのは、筆者の顔つきの影響もあるかもしれません。※キャセイでヨーロッパに行った帰りに香港でトランジットした際、グラウンドスタッフに危うくバンコク行きに案内されたこともありました。

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