FOU’s blog

日本の大学 今 未来

【大学院】大学院での論文指導が本当にできているのかホントに悩んでみる

最近の日本の大学教授たちってちゃんとやれているのかホント気になります。事務でこんな問題意識をもちこんなことを書いてくれる奇特な人も少ないですからまずは読んでみることです。

日本の論文指導の気になるところ

ここで悩むというか問題意識を感じるのは大学院での論文指導、研究指導のお話。多分旧帝大のような国立大や早慶レベルでは、数はこなしていますがそれでも実際のところどうなっているかは不明。もちろん教員側からすると、(人によっては)自信満々で大丈夫という人も多くいると思いますがそこが落とし穴。基本的にみんな教えるのが下手です。

①多くの私大では、論文指導・審査の件数自体が少なすぎ

そもそも大学院があって学生がいての論文指導と審査。基本的に一つの論文審査は主査1名、副査2~3名で審査体制(最近では指導体制という言葉もあわせて用います)を作って論文の完成まで面倒をみるのですが、その中でもがんばらないといけないのは主査の先生。主査になるためには、論文指導の経験年数、研究業績・活動歴、査読付論文数etcのような(実際はかなりあいまいな)要件に基づき大学内で会議を開いて研究指導教員になれます。大きくはマル合資格と呼ばれるMの学位審査(主査)できるもの、Dマル合資格という博士論文の主査になれるもの。で、もちろん当然Dマル合資格の方が要件が厳しくなります。ですので、Dマル合の要件を満たしている先生は大学内では重宝されます。このあたりは大学受験生は知らない大人の世界のお話。

で、このあたりまでのことは、MEXTetcでも基礎的な情報として書かれていますが筆者の問題意識は以下。

ご承知のとおり、日本の人社系大学院ってその大半が定員充足していません。その定員自体も10名~20名(修士・博士前期課程)とかのレべル、博士後期課程になると入学して数名。一つの大学院の教授職が20名いたとして主査になること自体まれ、こんなのですから特に博士後期課程でDマル合資格を持っている先生がいたとしても、実際の博士論文の指導の実務経験自体全く足りません。こんな状況ですので、指導も審査も(例えば)『私が早稲田で学位を取った時はこんなやり方で~』とか『京大で審査したときにはこんなやり方だった…』のような回顧基調なお話に依存をしつつお話が進んでいきます。で、サポートする副査の先生たちレベルも同様かそれ以下、最終関門の教授会でも同様に低調。この流れで日本では大学院の学位授与は行われます。結局みんなよくわかっていないのが実情。FDなんかではハラスメント対策のお勉強はしても論文指導方法のあり方みたいなお勉強会は話題になりにくいものと感じます。差しさわりの無い言葉を使うとすると日本の大学院ではみんな手探り状態で論文指導を行っている状態

②否定するのは楽、日本的な指導ではなくて選択肢の提供が必要

分かりやすい事例で考えてみます。

特に私大の場合、学部授業ではたくさんの学生に対して、教壇から一方的に話して授業を進めることばかりやっていますので、大学院のような極めて少人数での専門的な領域でどのように論文を書くかというようなことへの授業は苦手、普通に考えてコミュ力的なトレーニングが不足しがち。ですので、学生への論文指導の方法にも差が出てきます。良くない例は、書いてる論文について、単に『第〇章出来が悪いから作り直し、テーマを〇△に差し替えて』『全体的に良くないから~』等々。しっかりした先生なら『このあたりは先行論文で良いものがあるので読んでみたら?海外の文献で良いものがあるのでチェックしてみたら?』『書いてる方向性は良いが〇章部分は異なる視点から見てみるのも良いかも』のように個別具体的に院生と論文作成を進めることができる技量が必要となります。学んでいる学生側(比較できる指導の経験値が少ないため)は気づかなかったり言ってもムダと諦めたりでしょうがこれではいつまでたっても技量の向上は見込めません。

以上のお話については、過去に海外で修士をとった人の状況や博士後期課程の修了生からのコメントをもとにして書きました。海外(カナダ)の大学院は(少なくとも)日本以上にしっかりした論文指導をやっています。

③医学系研究科やその他の大学院も大丈夫?

特に私大医学部では配属先の医局・研究室のような組織においては絶対服従のタテ社会が構築されています。そんな中でそれぞれの業界(例えば消化器内科とか)では有名でお忙しい先生に博士論文の審査(ごとき)をお願いするなんてとんでもなく滅相もないことですのでそれなりのヤマブキイロを上納し失礼の無いようお願いするのが当然のお話(首都圏の私大医学部が顕著)。そんな環境の中でまともで建設的な論文審査なんてできません。

自然科学系の研究科でも、(例えば)学生が一生懸命がんばって論文書いても気がつけば筆頭著者から外れていたりすることはよくある話。権威主義歴な体制が残る法学研究科あたりも、(例えば)民事訴訟の権威(らしい)の先生に、学生が民事訴訟の新しい解釈の論文書いても(指導や審査以前に)見下されてしまいがち。だからそれもあって法学研究科には学生が集まらないんです。

結論してみると

ということでどこも全滅。ちゃんとできていません。もちろんどこのフィールドでも、どのように指導して審査すべきかしっかりしたポリシーを持っている先生たちはいるのですが、全体として数で負けています。

実際筆者が教員の会話を聞いていても『またこいつテキトーなこと言ってる!』的なことは毎度のお話。非常に未熟で勉強不足。

筆者には、文科省がいくら頑張っても大学院の出願者が増えないのはこんなところにも理由があると感じます。新制度やプログラムによる大学院教育の充実施策も重要ですがそもそもの部分のボトムアップはとても必要。教えるのが下手では救いようがありません。