プラハの写真もjpg化しましたので公開します。すいません。こちらでは大学ネタは皆無です。申し訳程度にアカデミック的な視点で解説します。気難しく書いてますがそんな昔の話でもありません。
今とは異なる風景
ちょうど最近、BSのテレビ番組でプラハぶらり歩き的なのをやっていました。夏で観光には一番良い時期の収録で、旅行者が旧市街を短パンTシャツで楽しそうにうろうろ。通りにはスタバやマクドのようなお店の姿も映っています。どうみてもとても良い観光地になり年間の観光客の数も500万人を超えているようです。
第二次世界大戦の直前、ドイツ・ヒトラー政権の領土的野心によりチェコスロバキア内ズデーテン地方のドイツ割譲を求められます。その平和的解決のため、1938年にミュンヘン会談が行われ、その時ヒトラーがこれ以上は求めません、と言ったので英仏首脳はそれを認めたことによりチェコスロバキアは事実状解体。で、その約束をしたドイツは翌1939年にはポーランド軍事侵攻を行います。そして1945年には今度は赤軍がやってきて占領統治。赤軍は将官クラスから一兵卒まで占領地内での非武装の民間人の殺害や婦女子への暴行は是認する体質の組織ですのでとてもひどい目にあっています。さらに言えば、この赤軍が旧満州地域への侵攻を行うのですから、当時住んでいた人たちが大変だったことはよくわかります。そんなのだから、ソ連の事実上の統治下の時代にはプラハの春のような蜂起が起こるんだと理解ができます。
そんな歴史を経てきた町。筆者の訪れた時代のチェコスロバキアは今現在のチェコとスロバキアに分離する前、そしてワルシャワ条約機構加盟の社会主義政権の時代でしたから、日本人の筆者は、西ドイツでVISAを取得してから電車の乗って訪れました。いろいろ異なる時代と文化を知っていただければ。
【写真1】Vltava(ブラタバ)川 冬は氷も流れます。この川によりプラハは二つに分けられている感じ。

【写真2】ヴァーツラフ広場1 今ではプラハのシャンゼリゼといわれているらしい(どこがやねん!)見てのとおり市内主要箇所には治安警察さんがたくさんいます。

【写真3】ヴァーツラフ広場2 行った当時はいわゆる東側・共産圏で西側・資本主義文化の存在は皆無。スタバやマクドやコカ・コーラも西側の腐敗文化(多分)なのでそんなものありません。苦労したのが市内に英語で書かれた標記は(ロシア語ならありますが)全くありません。当然英語も通じません。そんな街中ですので歩いている人も地味。

【写真4】トラム 今でもこの色調・デザインのトラムが走っています。

【写真5】Prague Orloj 天文時計台 旧市街観光のマストアイテム。今現在の時計台は整備されてキレイですが行った時はこのありさま。人もいません。

【写真6】Charles Bridge カレル橋 いろんな聖人の方の像が立ち並ぶ橋。手前が旧市街地区で向こうに見えるのがプラハ城。

【写真7】プラハ城の入口1 小高いところにあるので旧市街を見渡せます。人影まばら…

【写真8】プラハ城の入口2 衛兵さんが警備をしている理由は城内に大統領府があるからとのこと。今でも衛兵交代式をして盛り上がっているようです。

【写真9】プラハ城の入口3 衛兵さんの制服・帽子のデザイン・色調は東側っぽくてgood。銃はよく見ると本物ではなく儀礼用の摸擬銃に銃剣をくっつけているようです。※こんな話を書けるのも日本が平和だからこそです

【写真10】Hotel Kongress (多分)泊まったホテル この名前でググってみましたが今ではこの名前でおなじホテルはなくなっているようです。多分ヴァーツラフ 広場周辺にあった模様。ちなみに扉ガラスに書かれているのは ziehen(ドイツ語)=pull こうやってみるとドイツ文化圏なのかなあとも感じます。

【写真11】どこかのお店。当時の東側は通貨格差の関係で西側通貨を持っているととても贅沢に旅行できます。今の日本の円安の比ではありません。街中をあるいているとアジア系は旅行者だとすぐわかるので Change Money? の嵐。USドルを持っていると喜んで闇両替をしてくれます。ですので、レストランなんかも(現地では)高級な部類のお店でも(バックパッカーなのに)全然気になりません。写真は飲み屋的なそんなにも高くないお店のようですが地元の人はこんな感じで一杯やっていました。

まとめ
筆者が大学生であった時代でも当時の東側諸国へ行くのは珍しい人たちでした。それでもこうして写真見ながら振り返ると良い思い出と経験に。今の日本の大学はグローバルとか国際化とか言っている割に全てが内向きで閉鎖的。特に若い人たちは日本と海外の差異を感じることがとても大切。それで海外行ってきて日本の方が良いと感じるのならそれはもう仕方ありません…。