FOU’s blog

日本の大学 今 未来

大阪公立大学が開学したばかりなのに附属病院長が不在でもめていることについて考えてみる3 対立の背景

8/25(木)、クリニックを受診しました。個人でやっているクリニックですが、このことで話し込んで次の患者さんを待たせることに。すいませんでした。なお、記載の会話内容は若干誇張された大阪弁で表現しているとともに床屋談義レベルで裏どりしていない憶測話であることをご承知おきください。

選挙公示がでました

大阪公立大学医学部附属病院長候補者推薦等に関する公示(8月18日付け)により8月末までに院長候補者を募ることになりました。この公示がとても興味深くて、普通なら病院長に求められる要件や理想像を並べて記しているものと(筆者は)思うのですが、さらにその終わり部分に、理事長・学長経験者はダメです70歳以上の方はダメですのコメントが(露骨に念押し的に追記され)入れられています。ですので、応募してくる候補者の方は、70歳未満で、これまで学長をやっていない人たちにより選考が行われます。公示を読んでいて、筆者個人的には、(ある程度)公的機関の性善説に期待をしていたのですが、書類に書いていること、やっていることは、childish behavior で、首都圏の私大医学部と同様、もう少し社会的に誰もが納得でき、評価してくれそうな実施はできないものかと感じてしまいます。

こんな話をクリニックでしてみると『あの二人な、昔から医局内での対立とかがあって仲悪いねん。それが一番や思うわ』とのこと。地方政治との関わり合いについては『あんまり関係ないんちゃうか、西澤さんは府市から言われたらそのとおりなんでもやるタイプやけど、荒川さんはバックにいろんな人おるし性格的にストレートなとこあるから行政側からしたらやりにくいんちゃうか』でした。最後に『荒川さんが、いろいろやりたかったんは病院の将来構想や思うわ、自分がでられへんのやったら呼吸器内科の先生あたりかつぐんちゃうかな』とのことでした。

↓ で、以下は筆者の考え ー大阪公立大学と医学部附属病院との関係ー

この医学部附属病院の歴史は、第二次大戦中、戦争の長期化による軍医不足に起因する社会的要請で急ぎ足で作られた医専がルーツ。戦後最終的に大阪市が引き取り大阪市医科大学とし、旧大阪市大と統合させ、そして令和4年4月からは大阪公立大学の一部となっています。特に大阪公立大への統合は、医学部附属病院にとっては(箍(たが)が外れ)大きな影響がでる可能性があります。

附属病院が現在の姿に建て替えが行われたのが1990年代の終わりごろ。当時大阪環状線南海電車に乗っていると、大きな建物が出来ていくのを見ることができました。この時は、もともとの医学部・病院の敷地内で古い建物の解体と新築工事を同時に行うことにより現在の姿になっています。あれから20年、建物は今でも新しく感じますが、そろそろ中長期の病院の在り方を考える時期になってきました。

これまでの考え方では、大阪市立の大学病院でしたから、今後、建て替えるにしても、もう一度同じ場所の阿倍野でも良いでしょうし、市と話をして大阪市内の別のところに建てるというのもあって良い話。ところがこの4月、大学統合により、大阪市のみがコントロールする病院ではなくなりました。つまり、2030年代あたりに新病院をどうするかの選択肢として大阪市以外の大阪府内のどこかに移設することも可となりました。大阪市より北には阪大医があり関西医大があり大阪医大がありますが、大和川以南にも基幹となる大きな医療施設があった方が良いような気もします(近大医さんはありますがロケーションが悪い)。また府が調整すれば建設用地の確保も容易に準備できそうなのでまんざら机上だけの話ではないのかもしれません。

大阪市内に大学病院なしに?

主治医はまた、『東京みてみ。23区内にたくさん大学があって医学部もあって附属病院もあるやろ。大阪はこの病院だけや。都市のあり方として、院長選挙抜きにしてもいろいろ考えなあかんとこやと思うで』とも。280万人規模の大阪市。今現在総合大学として残っているのは大阪公立大学だけ。その大阪公立大学も大学本部機能は旧府大の中百舌鳥(堺市)※へ集約されつつあります。※『なかもず』って読みます

阪大は、1980年代まで中之島にあった医学部・附属病院を吹田※キャンパスに移転して大阪市内にはキャンパスとしての施設はありません。※『すいた』と読みます。『ふいた』じゃありません

そんな状況の中、今現在、公立大附属病院を除き、大阪市内に大学病院の機能を唯一置いているのは、なぜか京都大学さんだけ?という(ある意味)珍現象に。病院名は、田附興風会(たづけこうふうかい)医学研究所北野病院さん。大(だい)大阪の時代、京大での治療に感謝した大阪の篤志家田附政次郎さんの厚意で作られ、病院名は關一(せきはじめ)大阪市長(当時)が命名した由緒あるもの。田附さんは近江商人でしたので三方良しで多くの社会貢献をもされた方。また、時代背景的には、大阪帝大が発足する少し前だったということもあり、京都(帝国)大学さんに期待をされてのことだと思います。この病院、700床近い規模で(事実上)京大直轄で運営されており、これまでの理事長には本庶佑さんのような京大の重鎮の方々が名を連ねます。

多少お話が脱線気味になりましたが、公立大学化後の医学部・附属病院のあり方を考える上で(特に大阪関係者としては)重要な院長選挙になると思います。今後の動きに注目です。

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